■ 発掘調査報告 No,2 ■
〜広報「わかざくら」 発掘調査現場から〜
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発掘調査現場から(157回) 広報「わかざくら」 平成11年11月15日号掲載
・4世紀の焼失住居(安倍寺遺跡調査)

4世紀の焼失住居(安倍寺遺跡調査)  安倍寺遺跡の第9次調査において、4世紀の竪穴式住居とそれに平行する杭跡が検出されました。これまで安倍寺遺跡では同時代の多量の土器や溝や土坑などの遺構を確認しており、比較的密な遺構の存在が予想されていましたが、今回の調査によりその一端を垣間見る事ができました。
 竪穴式住居からは、沢山の炭化木材と焼土と、それらに紛れて多量の完形品の土器が出土しました。土器は特に南東隅から多く出土し、中には小型丸底壷が入れ子になっていたり、甕の半分に切ったものに蓋をする様に高坏が伏せられていたりと、住居内での土器の使用方法が伺われる状況でした。また出土した甕の一つからは炭化米がフィルムケースに2個分程残っていたり、木質が付着している刀とみられる板状の鉄製品も出土しています。
 この竪穴式住居は炭の検出状況からみて焼失住居になると考えられます。ただし故意に燃やしたのか、事故で燃えたのかを判断する材料を見付けることはできませんでした。
 今回の調査では他に6世紀の竪穴式住居と7世紀の掘立柱建物も検出され、隣接する安倍寺跡と吉備池廃寺の時間的地理的な間を埋める遺構群も存在する事がわかりました。

発掘調査現場から(156回) 広報「わかざくら」 平成11年9月15日号掲載
 織田小学校校舎建て替えに伴う発掘調査を、4月から6月にかけて行いました。調査対象地はかつての芝村藩陣屋、つまり、江戸中期から幕末にかけて織田家の屋敷地兼役所だった場所です。小学校となった今でも当時の石垣が残り、周辺には濠や屋敷割の名残が見られ、往時の風情が偲ばれます。
 トレンチは東西12・5m×南北14mと拡張区東西4m×南北11mで設定し掘削を開始したところ、地表面より約40cmで遺構面に達しました。多くの土坑などが見つかったなかで、陣屋に伴う遺構として溝(SD−1001)、柱穴(SK−1007、1010)が検出されました。
 SD−1001は、北東から南西にかけて幅40〜60cm、深さ約50cm程に掘削されており、一部石が組まれていました。石組は溝の両側に50cm大の石を4個づつ並べて置いてあり、板などを渡して橋にしていた箇所と思われます。なお、元々この溝は素掘溝ではなく、木樋や貼石などが施され排水溝や区画溝などとして使用されたと思われます。
 SK−1007,1010はどちらも深さ約50cmで、底辺には40cm大の偏平な根石が据えてあり、根石のまわりには10cm前後の栗石を数個確認できました。しかし、柱は抜き取られたらしく残っていませんでした。
 また、陣屋廃絶の際に瓦を廃棄するために掘削されたと思われる土坑から、多量の瓦が割れた状態で出土し、中には織田家の家紋や巴紋をあしらった軒丸瓦などが発見されました。
 下層面には遺構はみられませんでしたが、弥生中期から鎌倉期にかけての土器片が出土しました。これらは、近辺の集落から洪水によって流されてきたものと思われます。土器以外には太型蛤刃石斧、石 、不明鉄製品、馬歯、円筒埴輪、盾形埴輪、不明形象埴輪が発見されました。このうち埴輪類は、陣屋構築の際、整地のために付近の古墳等から土を採り、その時に混じったものと思われます。 今回は桜井市では調査例が少ない近世遺跡の発掘であり、そういった意味では貴重な資料の一つとして今後活用されればと思います。

発掘調査現場から(155回) 広報「わかざくら」 平成11年8月15日号掲載
・馬場山の神遺跡の調査

馬場山の神遺跡、石組を持つ土坑  山の辺の道にほど近い大字茅原の馬場山の神遺跡において第1次調査を行い、石組を持つ土坑を検出しました。トレンチの南西隅で検出されたため遺構の全体は確認できませんでしたが、検出した遺構の平面形と断面で確認した形状から、径約2.3m、深さ1.2mのやや斜めに掘り込む不正円形の摺鉢状土坑と推測されます。
 石組の中からは、口縁部が欠損した7世紀後半の須恵器の平瓶と土師器坏が、据えられた状態で出土しました。 この土坑は地盤の岩が風化した砂層まで掘り抜いている事などから井戸の可能性が高く、石組は土器の出土状況から、井戸を廃棄する際の祭祀の施設と考えられます。

発掘調査現場から(154回) 広報「わかざくら」 平成11年7月15日号掲載
・吉備遺跡の発掘調査

 吉備遺跡の発掘調査が4月7日から4月14月まで行われました。
 調査地は大字吉備地内のやや高い丘陵上で、藤原京の内部にあたる事や、近年百済大寺ではないかと話題になっている吉備池廃寺に近い事から、藤原京時代の遺構や遺物の発見が期待されましたが、予想に反して古墳時代前期の子供用の棺桶として利用された壷が出土しています。
 壷は穴の底に寝かされた状態で、口の部分には遺体を中に納めた後、土が中に入り込まないように炊飯用の甕が蓋としてはめ込まれていました。
大きさは高さ75p、胴径61pと非常に大きな物でしたが、壷の口径は約20pと小さく、無事に生まれなかった子供や、生まれてすぐに亡くなった子供を埋葬したものと考えられます。
 古墳時代の墓と言えばすぐに古墳が頭に浮かびますが、当時盛り土を持った大きな墓や、木棺と呼ばれる木製の棺桶に埋葬されるのは一部の権力者だけで、多くの人は穴を掘って埋めるだけという簡単な埋葬が主流だったようです。
 発掘調査では一般の大人の墓を見つけるのは非常に困難ですが、子供は壷に納められている事が多いため、市内では纒向遺跡や芝遺跡、上之宮遺跡などで見つかっています。 大人の様にそのまま遺体を埋葬せず、壷や甕などに納めて丁寧に埋葬するのは無事成長出来なかった我が子に対する愛情の表れの様に思われます。

発掘調査現場から(153回) 広報「わかざくら」 平成11年5月15日号掲載
・大藤原京北三条条間小路跡

大藤原京北三条条間小路跡  大福遺跡第18次は市道粟殿・大福線付設に伴うもので、120uを調査しました。調査の結果、大藤原京の東五坊北三条条間小路の道路側溝とその南側から堀立柱の痕跡が多数見つかりました。道路は側溝の芯芯間の幅が7.1mで側溝の幅は1.3〜1.5mを測り、中からは土師器坏や須恵器坏・甕片が多量に出土しました。
 今回の調査で出土した道路側溝は、復元図により推定されていた位置とほぼ合致しており、最近の調査の成果と合わせて、条坊の復元と大藤原京の範囲を確定させる資料の一つになりました。

発掘調査現場から(152回) 広報「わかざくら」 平成11年4月15日号掲載
・東田大塚古墳の発掘調査

 大字東田にあります東田大塚古墳の発掘調査が2月から3月にかけて行われました。調査は農道の整備事業に伴うもので、墳丘の裾部より東方へ約70mに亙って幅3mの調査区を設定しています。調査の結果、古墳の周囲からは幅約21m、深さ約1mの周濠の跡が確認されました。濠の中からは3世紀後半から末頃のものと見られる甕や壷・高坏などの土器類や、機織りの際の経巻具・有頭棒などの木製品が出土しています。
 この事から東田大塚古墳は少なくとも3世紀の末までには築造が終了していた最古級の前方後円墳である事が確認されました。
 纒向遺跡には石塚古墳をはじめとして6基の前方後円墳が存在していますが、いずれの古墳も3世紀の中で築造された物である事はほぼ確実となりました。纒向遺跡の古墳群は前方後円墳で構成された日本最古の古墳群と言えるでしょう。
 この他、周濠外側の肩部分からは埋葬施設が1基確認されています。この埋葬施設は西部瀬戸内系の大型複合口縁壷を棺として使用したもので、小児用の物と考えています。壷棺の蓋には外面を朱で真っ赤に塗られた東海地方系の壷が上半分を打ち欠いて使われており、棺と蓋が西と東の土器を使用した珍しい物である事が解りました。

発掘調査現場から(149回) 広報「わかざくら」 平成11年3月15日号掲載
・纒向遺跡の第112次調査

纒向遺跡、土坑の中の完形品に近い土器  纒向遺跡の第112次調査は箸墓古墳の西約150mの地点で行いました。この地域ではこれまでの周辺の調査で弥生時代後期〜古墳時代前期の遺構群が見つかっており、今回の調査でもこれらと同じ時期の遺構が検出されると予想していました。
 調査は2カ所に分けて行い、一方の調査区からは弥生時代後期の溝が2本と北東方向に柵列状に並ぶピット3基、これまで周辺では確認されていなかった5世紀後半の須恵器の完形品が入っていた楕円形の土坑などが確認されました。
 またもう一方の調査区からは箸墓古墳とほぼ同時期の土坑や落ち込みが検出され、土坑の中からは完形品に近い土器が多く出土しました(写真)。
 これらの遺構を検出した遺構面の直上には同時期の埴輪を多く含む土層があります。弥生の遺物なども同様に含む事から元々残っていた弥生〜古墳時代の遺構や古墳そのものを整地や耕作などにより掘り返してできた層と考えられますが、今回の調査地を含む箸墓周辺には後期古墳が数多くありその中の破壊された古墳の土を運んでいる可能性もあります。

発掘調査現場から(148回) 広報「わかざくら」 平成11年2月15日号掲載
・吉備池廃寺の発掘調査

吉備池廃寺の発掘調査  吉備池廃寺(吉備池遺跡第9次)の発掘調査が昨年の10月9日から12月7日にかけて行われました。調査地は桜井市大字吉備小字有ノ下、吉備池の北方約50mの地点に位置しています。池の南東隅には以前から橿原市にある飛鳥時代の木之本廃寺と同一型式の瓦片が散布しており、木之本廃寺の瓦を焼いた瓦窯があるものと考えられていました。
 しかし、1997年の桜井市と奈良国立文化財研究所が行った瓦窯の実態解明を目的とした共同調査により、掘込み事業を施した巨大な金堂跡と見られる基壇を検出、翌年にはその西方約50mで塔跡と見られる基壇が確認された事から、瓦窯ではなく飛鳥時代の寺院であった事が解りました。この寺院は発見された場所の名前から吉備池廃寺と名付けられましたが、金堂や塔が極めて大きな規模を有する事や、遺物の年代、周辺に残る地名の考証などから舒明天皇が639年に発願して建設が始まった百済大寺ではないかと考えられています。

 今回の調査で検出された飛鳥時代の大型建物は北側で7基、南側で4基の計11基の柱穴によって構成された1間(5.4m)×6間(16.4m)以上の東西に細長いもので、柱間は東西方向が9尺(2.72m)・南北方向が18尺(5.45m)の規模を持っています。調査区の制限もあり、東側は妻部まで確認できたものの、西側についてはどこまで続くかは解りません。
 11基の柱穴の内、最も大きな物は南北2.8m・東西1.7m、深さ1.5mと非常に大きな物で、飛鳥時代でも最大級の柱穴を持った掘立柱建物であると言えます。建物や柱列の性格については吉備池廃寺の金堂・塔などとの位置関係、建物の構造などを考え合わせると寺に付属する大房や小子房などの僧房の施設と、板塀などの区画のための施設と考えています。
 建物は僧坊にしては規模が大きすぎるという見方もありますが、この寺が百済大寺であったとするならば、寺の建立は我が国初の勅願寺(官立寺院)として、それまでの各豪族によって建てられた寺院とは異なり、国家(天皇家)としての威信が賭かっていたはずです。巨大な金堂や塔・そして巨大な柱穴はこの一大プロジェクトに対する人々の意気込みの現れではないでしょうか。
【巨大な金堂の基壇跡】
 基壇築造の基礎工事にあたる掘り込みで、その上に土を何層にも突き固める「版築」と呼ばれる技法で高さ2・5mまで盛土していた。礎石などは見つかっていない。
 また、桜井市山田の山田寺の瓦よりも古い特徴をもつ大ぶりの軒丸瓦や、斑鳩町の法隆寺・若草伽藍と同じ文様が押された軒平瓦が見つかり、年代が640年ごろと分かった。
(平成9年2月)
 
吉備池遺跡、金堂の基壇跡
【最大級の塔の基壇跡
 吉備池南側の金堂基壇跡から西へ約55mの所で見つかった塔の基壇跡は、一辺約30mという大規模なもので、地面を整地した上に厚さ約3〜7cmの幅で丁寧に土をつき固める工法(「版築(はんちく)」工法で築かれ、高さは約2.3mになる。
 基壇の西側からは心礎(中心の柱を支える礎石)を引き上げるために設けたスロープが見つかったほか、中心部からは心礎を抜き取ったと考えられる東西約6m、南北約8mに及ぶ巨大な長方形の穴も見つかった。心礎はなかった。
 また、金堂と塔が東西に並ぶ、法隆寺式伽藍配置だったことも判明した。
(平成10年3月)
吉備池遺跡、塔の基壇跡

発掘調査現場から(147回) 広報「わかざくら」 平成11年1月15日号掲載
・弥生後期の円形竪穴式住居跡(横内遺跡)

弥生後期の円形竪穴式住居跡  大字横内、大福、吉備に跨がる横内遺跡の第2次調査を9〜10月に実施しました。調査の結果、弥生時代後期の円形の竪穴式住居跡が発見され、粘土と砂のブロック層からなる張り床や根石を敷いた柱穴などが良好な状態で残存していた事が確認できました。
 住居内からは若干の土器片と長さ5m程の石鏃やじりが1点出土しています。弥生後期の竪穴式住居跡は市内盆地部南の磐余地域では谷遺跡に次いで2例めとなりました。