■ 歴史トピックス ■
桜井市は、飛鳥時代以前に都があった地であることから、文献等で記録されている日本で最初に行われたというものがいくつもあります。ここでは、そのうちのいくつかを紹介します。
(文献 桜井風土記 平成8年桜井市発行)

 第1回 日本芸能の発祥の地
 第2回 国技相撲の発祥の地
 第3回 国号の発祥の地
 第4回 万葉集の発耀の地

第1回 日本芸能の発祥の地 《土舞台の顕彰》
 「土舞台」については「日本書紀」の推古天皇20年、時の摂政聖徳太子に、百済人味摩之が我が国に帰化して、「呉に学びて、伎楽の舞を得ました」と申し上げた。そこで太子は「桜井」にて我が国の少年を集めて、この伎楽の舞を習わしめたとしるす。
 伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇で西域をへて中国に伝わり、散楽といわれたものである。  我が国には「神楽」があったがこの時以来、宮廷に伎楽が加わって日本の芸能は幅広い豊かなものとなった。ところが、宮廷が衰えた武家時代に、これらの音楽家は天王寺や住吉、春日等大社寺に保護されて、民間でも演技を行うようになっていった。
 現在、桜井の児童公園内のこの史蹟地のことは、江戸時代の「大和名所図絵」にも紹介されているが、一般にはほとんど知られなくなった。
 戦後、桜井市出身の文筆家保田與重郎氏が、これだけの史蹟地を顕彰しないことはないと考えられ、市内有志にはかり趣意書をしたためられた。「聖徳太子伝暦」をも調べ、「土舞台」は、日本最初の国立劇場であり、また、太子は国立演劇研究所をも併置して芸能文化のため尽くされた、といった17枚に及ぶ長文を執筆配布。やがて昭和47年11月4日、「土舞台」と刻した標石の前で顕彰会に市が後援で盛大な顕彰式典が挙行された。当日、特別来賓として朝永振一郎(ノーベル賞受賞の物理学者)夫妻、福田恒存(劇作家)、森繁久弥、岸田今日子、仲谷昇氏らが出席していた。森繁氏が芸能人代表で、歌舞伎から漫才に至るまで、我が国の芸能人は、当地に参ってから各自の芸を演ずべきだ、と感動をもって挨拶していた。爾来毎年、土舞台顕彰会主催(初代会長西垣栄一氏・現会長重坂眞一氏)顕彰式典を行って平成6年は23年目、篝能を行うようになって15年目になる。我が国演劇史上の大切な史蹟地が当市に1300年伝承されてきたことは大いに意義のあることではなかろうか。
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第2回 国技相撲の発祥 《カタヤケシの昭和顕彰》
 昭和36年ごろ、桜井市と大三輪町との合併問題が話題になっていた。そのころ、中村元旦氏が文化事業を考え、しきりに京都の保田與重郎宅を訪ねて、指導を受けていた。
 ある日、「纒向の”カタヤケシ”は国技発祥地「垂仁天皇7年(紀元前23)7月7日、この地で当麻の蹴速<けはや>と出雲の野見宿祢<のみのすくね>とが天覧相撲をとった。この時以来、代々の朝廷では相撲を国の政<まつりごと>の一つとしてこられた。」だから、全国的に知られていない当地を顕彰して、日本相撲協会幕内全力士に参拝してもらっては」と、二人の意見が合った。当時、本市の体育協会長であった中村氏は、是非実現したいと熱をこめて話していた。
 そこで保田氏は在京の友人三浦義一・尾崎士郎(横綱審議会委員)の両氏にこの主旨を伝え、相撲協会理事長(時津風)、並びに秀ノ山理事と話し合い、快諾を得てくだされ、その知らせが地元に届いた。時期は3月の大阪場所後と決められた。よって昭和37年初場所中の1月中旬すぎだったろうか、保田氏のお供をして池田大三輪町長・大浦桜井市長・中村氏が上京、三浦・尾崎両氏並びに、協会へ挨拶に回ったがその時、秋の大阪準場所後に延期となった。
 当時9月は大阪準場所で、その千秋楽後、10月6日に旧桜井小学校庭に大型バスで両横綱以下幕内全力士が降り立った。桜井市長歓迎の辞あり、直ちに市内有志提供の車に分乗して大兵主神社に向かう。神前では、紋付姿の力士が勢揃いし、中宮司祝詞奉上、ついで時津風理事長が緋色の衣冠束帯の正装で祭文奏上、式後、「カタヤケシ」にて柏戸・大鵬両横綱が青天井の下土俵入りを行った。色付きかけた蜜柑山に10万の人出と翌日の新聞は報ず。
 これが機縁となり翌昭和38年4月1日、大三輪町が当市に編入合併となった。
 ところで保田氏が大三輪町刊の「国技発祥地の顕彰のために」との小冊子に「この地を日本第1相撲濫觴聖地とし、全日本の学童角力の中心道場として、また民族的憧憬の現場として、ゆくゆく全国大会を催したい」としるされていたことを思い出す。関係者各位がご健在ならいずれ実現したに違いない。志をつぐ人士のあらわれんことを念願してやまない。
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第3回 国号の発祥の地 《磯城島(式島・敷島)の顕彰》
 磯城島の地は紀元前から68年という長い間、崇神天皇の磯城瑞垣宮があった。この御代に神皇分離が行われ、天照大神を檜原神社に祀った。それ以来、この付近が上古の都の地になっていたので名高くなった。敷島の大倭と続くのは、敷島の地が大倭郷に属している処から、石上布留というのと同じ枕詞となった。島とは水中の地ではなく、宮廷領の一区域を指していう語で「しきしま」は後には、大和−日本の国を指し示す言葉になった。万葉集に「磯城島の大和国は言霊の助くる国ぞ真幸くありこそ」という歌がある。歌意は、「大和の国は言葉に霊力がひそんでいる国だ。私が今、こうして祈っているのだから、効き目がないわけがない。無事帰っていらっしゃるに違いない」と海路の無事を祈った歌である。
 次に「敷島の大和国の明けらけき名に負う伴の緒心努めよ」というのがある。これは、大伴家持が、我々大伴氏は潔白な心で仕えて来たとの評判を持っているのだ。疑いをかけられるようなことがあってはならない。心を励まし一所懸命まごころの行いをせよ、と一族を喩した歌だ。  ここ瑞垣宮から東南、初瀬川と粟原川との間に欽明天皇の磯城島金刺宮があった。この御代の6世紀半ばに、仏教が初めて公式に我が国に渡ってきたのである。いわば当地は、国際都市として大いに繁栄していたのだった。
 古代の市場、海石榴市のあったのもこの地で、平成5年皇太子殿下御成婚記念事業の一つとして環境整備地に選ばれた。このことはまことに意義深いことではなかろうか。
 この付近で少年時代を過ごした保田與重郎氏は、都の名が国の称えとなった例はその先にもあとにもない、磯城島金刺宮こそ、大倭朝廷の力あふれてなりたった大なる都だった。と後年しるされていた。
 かくのごとき歴史的感情にいろどられたこの雄大な景観は、日本広しといえどもここ以外にはない。地球環境遺跡地としての保存は、こういう処をこそ、現状を汚すことなく、子孫に伝えたい。
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第4回 万葉集の発耀の地 《泊瀬朝倉宮の顕彰》
 黒崎の神社東北の丘が、泊瀬朝倉宮の跡との伝えである。第21代雄略天皇の宮都で
大泊瀬稚武(オオハツセワカタケル)天皇と申し、万葉集20巻4516首中の開巻第1首目を次の如く読まれた。
 こもよ みこ持ち ふぐしもよ みふぐし持ち この岳に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね。そらみつ 大和の国は おしなべて あれこそをれ しきなべて あれこそませ あをこそ、背とは告らめ 家をも名をも(万葉集古義)
という歌で、春先、宮廷付近の丘で若菜を摘んでいた娘に結婚を申し込まれたのである。 昔は、女の子の名は母しか知らなかった。それゆえ、名を明かすことは求婚に応じることを意味した。  若菜を摘む行事は、今も正月7日の七草粥に伝わっている。正月のおせち料理のあと、7日に初めて雪をわけ若菜を摘んで食べ、生気を養うというしきたりなのだ。
 ところで昭和43年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土の金象嵌の鉄拳に刻まれていた115字(漢字)がレントゲン撮影の結果、「シキノミヤ」とか「ワカタケル大王」と判読できた。先の明治6年、熊本県菊水町・江田船山古墳出土の銀象嵌の鉄剣銘75字のうちから「天の下しろしめししワカタケル大王」とよんでいた。
 これらによって、我が国の古代の大英雄、「倭成す神」雄略天皇は当時、関東から九州まで統治されていたのだと分かった。
 かかる偉大なる天皇の明るく、やさしい恋歌から万葉集は始まっているのだ。編者の構想のすばらしさが心にくいばかりではないか。
 万葉集の成立について「日本の文学史」(保田與重郎著)に、万葉集開巻の朝倉宮御製からうける感情は私にとって、特異なものだった、という著者は日本人として生まれ、日本の最も古い詩歌の一つを己の命の始めのそのまま、そのものとしているような、これを生甲斐というのだろうか、としるし、さらに、人のいのちの今生一世に詩歌文芸というものが何であるのかを考えた時、私はただこの国にうまれたよろこびというより他の表現をさがし出し得ない。そういう感動の凝固したものが、この朝倉宮の御製だったと溢れ出ずる感情の昂りを示されていた一文を思い出す。
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