| ■ 第3回市町村合併講演会 ■ 「兵庫県の事例に見る市町村合併の課題」講演録 |
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(更新:2003/8/15)
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| ◎第3回市町村合併講演会「兵庫県の事例に見る市町村合併の課題」講演録 PDFファイル版(177KB) ◎第3回市町村合併講演会 レジュメ PDFファイル版(34KB) ◎兵庫県知事室広報課の御厚意により兵庫県ホームページ「県内市町案内」より転載させていただいています。 「県内市町案内図」PDFファイル(385KB) ※「PDFファイル」の利用にはアクロバットリーダーが必要です。 作成された文書等と同様の印刷をインターネットで再現するための技術(ソフト)として、PDF方式を採用しています。ご利用にあたっては、アドビ社が無償配布する「アクロバットリーダー」の組み込みが必要になります。 →アクロバットリーダーダウンロード(PDFデータを読みとるソフトのダウンロード-無償) |
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◎第3回市町村合併講演会「兵庫県の事例に見る市町村合併の課題」講演録 講 師 : 神戸新聞社編集局調査研究資料室長 松本 誠 氏 日 時 : 平成14年10月28日(月) 午後1時30分 場 所 : 桜井市役所 2階 大会議室 →松本 誠 氏のホームページ →神戸新聞 WEB NEWS 特集「市町合併」 |
| はじめに | TOP |
今日は、兵庫県の事例から、いろいろと皆さん方のご参考になるような話をさせていただきたいと思って参りました。私は新聞社に入ってすでに35年になります。神戸新聞は兵庫県を対象としています。奈良県は、電車で来れば1時間半くらいで来られるのに、よく考えてみたら、あまり知りません。同じように、こちらの皆さん方も、兵庫県については,阪神・淡路大震災が8年前にありましたから、いくつかはお知りの点が多いでしょうけれども、今日の合併の話にあるような郡部の状況については、土地感もそんなに詳しくないのではないかという感じがしております。知らないところの地域を一つのケーススターディとして、自分たちの地域のあり方を学ぶというのは、言わば「地域づくりの鉄則」ではないかと思っております。そういう意味で、今日は、「兵庫県の事例に見る市町村合併の課題」とは一体何だろうかという話をさせていただきたいと思います。合併についての基本的な話は、すでに何回かの講演をお聴きになって、十分ご承知のことと思いますので、できるだけ具体的な事例に沿って今日は話をさせていただきたいと思います。私は、新聞記者をやってきましたけれども、ここ10年あまりは、地域政策、まちづくりの研究をおもな仕事にして、まちづくり等についての調査・研究とか、講演・シンポジウム等を行ってきました。同時に、1995年にスタートした地方分権の歩みのなかで、96年から「自治・分権ジャーナリストの会」というものを全国的に組織しました。近畿でのジャーナリストの会の事務局を私がやらせていただいています。一昨年、「日本自治学会」というのを、地方分権推進委員会の学者・研究者の先生方とジャーナリストの会が呼びかけて、立ち上げました。第一次分権改革をどのように発展させていくか、そういうなかで、第二次・第三次分権改革を準備していくという議論をこの学会はターゲットにしておりますが、来月23日・24日には、このお膝元の大阪の桃山学院大学で第2回の研究大会を開きます。 そういうように、いわゆる自治・分権、合併にかかわるような問題について若干なりとも深入りしておりまして、兵庫県に関しては、3年前から大学の政治学・財政学の先生と一緒に分権の研究会をつくって、兵庫県内88人の市町長さん、首長さんの意識調査、あるいは、議員さんの実態調査ということをしながら、とりわけ、ここ2年ほどは市町村合併の動きについてのいわゆる首長さんのヒアリングをしてきました。そういうことを中心に、今年の6月に『分権・合併最前線』という本をまとめました。今日は多分、時間の関係で詳しくお話できないと思いますが、少しこの本の中からつまみながらお話します。もし、詳細にお知りになりたい方がいらっしゃれば、何冊か持ってきておりますので、また後ほどお買い求めいただければありがたいかと思います。 |
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| 1.兵庫県の市町村合併史 | TOP |
| (1)市町村数の変遷 さて、兵庫県の市町村合併でありますが、すでにご承知のように、市町村合併は、明治21年に町村制が敷かれてから、明治の大合併、そして昭和の大合併と2回の大きな合併を経て、数が変遷してきております。お手元のレジュメの2枚目のところに、兵庫県の市町村合併の推移という表が入っております。それを見てもらったら分かりますように、兵庫県の場合と全国の場合を対比していますが、明治21年に町村制が敷かれた時点では、兵庫県では3,382の町村、現在の全国の市町村数に近い、町村がありました。これが明治の大合併が明治21年から明治22年に行われたなかで、430まで減りました。言わば、8分の1近くに減っております。全国的に言えば、71,000から15,000程度ですから、だいたい4分の1から5分の1くらいの減少です。比較的に大規模に町村合併をこの段階では進めたことになります。 昭和の大合併では、28年には322あったのが、31年、3年間の時限立法の合併促進法のなかで、120まで減った。さらに、まだ間に合わなかったところを合併促進するために、市町村建設促進法が昭和31年に5年の時限立法で追加されて、そして、37年には97まで減った。言わば、3分の1、全国ベースでも、9,800からだいたい3,400ですから3分の1という、全国平均的な市町村合併を達成していました。兵庫県では3年前の、99年4月に、多紀郡で篠山市の合併がありました。これでそれまで91あったのが、88に減って、現在に至っているという状態であります。 (2)兵庫県の行政区界と特徴 兵庫県というのは、大変、広いエリアであります。日本列島の本州のなかで、端っこの青森と山口を除けば、太平洋と日本海に面しているのは、兵庫県だけであります。広大な面積でありまして、近世では、摂津、播磨、丹波、但馬、淡路という5つの大きな国に分かれていました。これが、明治の初めに、全部を一つにしてしまった。最初は、5分の1くらいの面積が兵庫県として計画されていたのが、明治政府のいわゆる開国政策で、神戸港を大きな西の拠点にしていく、そのヒンターランドとして広げようということで、一挙に日本海まで含めた大きな大県として兵庫県というものが施行されたわけであります。 したがって、兵庫県というのは、上が但馬であります。日本海側。神戸市から阪神間というのは摂津の国であります。篠山市とその上の氷上郡というところは京都丹波との境を接する丹波の国であります。神戸の西、但馬の南が播磨の国であります。そして、淡路。この5つの国と言いますか、県の行政組織についてもこの5つを基本に、広大な播磨地域を2つに割って、東播磨と西播磨という形で、6つの県民局で総合行政を敷いてきました。昨年からは、さらに細分化して、県民局を10に増やしているという新しい対応もあるのですが、そのような地域性であります。 したがって、それぞれの地域で、例えば但馬の豊岡とかその辺りというのは、京都の北部との連携が強い、生活圏があるみたいです。あるいは、丹波の地域、もともと亀岡など京都丹波と兵庫丹波というのは、丹波で一体であったのを、真ん中で線を引いて、兵庫と京都に分けてしまった。したがって、この境界線のところというのは、いわゆる県境を越えた付き合い、関係がある。北部の方は、福知山の経済圏に入る。南へ来れば、尼崎市というのは電話の市外局番は「06」の大阪であります。兵庫県にあって、兵庫県は「07」なのですけれども、「06」の「大阪府尼崎市」とも言われているいわれなのですが、そういう阪神間というのは、大阪の経済圏に完全に入っている。淡路の南の方に行けば、もともと淡路というのは阿波藩、徳島藩の支配にありました。これが、大鳴門橋の開通によって、南の方は徳島との関係が強い。あるいは西の方、これは後ほど申し上げます、県境合併、県を越えて赤穂市と岡山県の一部が、昭和の大合併の時に合併しました。あるいは、西の鳥取と但馬の西の部分が広域経済圏になっています。そういうふうに、周辺地域との境界領域で盛んに交流が行われています。マージナル性と言うのですか、いろいろな人の行き来がある。だからどうしても、一つの県の中で完結しないという状態があると言えます。 (3)「昭和の大合併」の遺恨 そのような兵庫県が、先ほど申し上げました昭和の大合併では、3分の1に減らすことをやったわけであります。また、平成の大合併を考えていく時に、兵庫県は皆さん方ご承知のように、市町村合併には大変慎重であるというふうに言われています。全国の都道府県の中で、当時の自治省から言わせれば、最も非協力的な県であるという烙印を押されています。当時は、昨年の6月まで知事をしていた貝原知事が全国知事会の地方分権推進委員長として、言わば、地方分権の旗振り役であったと言われています。そういうような知事の強い意向が、市町村合併は上から押し付けるのではないのだという考え方の上に立っていて、県が自治省から求められた合併パターンをなかなか作らなかったということも大きな要因です。 もう一つは、昭和の大合併で随分と苦い教訓を持っているところです。昭和の大合併の時に起きた合併をめぐる紛争であります。随分と、あとのしこりが今日今もなお響いております。今、進めている合併の大きな流れのなかで、40数年前の昭和の大合併のしこりをもう一度再現して、いろいろなドタバタが起きているのが現実であります。 いくつかの例を上げると、いったん合併したけれども、半年あるいは2年後にもう一度分町してしまったというところがあります。それは淡路島の北端のところにあります、今は明石海峡大橋が架かっていますが、淡路町と東浦町です。この地域は、もともと4カ町村あったところなのですけれども、それを一つにし、昭和の大合併では淡路町と東浦町が合併します。合併したのですけれども、合併した直後に、庁舎位置、すなわち新しい町の役場の位置をめぐって激しい攻防がありました。もともと合併の時に、この真ん中あたり、ちょうど今の淡路町と東浦町の境界線ぐらいのところに町役場を持っていくということが、合意されていたのですが、合併直後に新しい町長と議会が、この突端の、今、橋が架かっている一番北の端の岩屋というところに移すということに議決されました。これで大もめになって、南側の3町村がそれに反発した。そして、当初計画通りやれと言ったけれどやらない。だったら、「もう分町だ」という話になり、県に対して分町嘆願書を出し、分町申請する。すったもんだして2年間、もめにもめたあげく、県も仕方なく分町を認めざるを得なくなり、元の4つの町が北の淡路町と南の東浦町という2つに分かれたわけであります。 この分町の結果、何が起きたかと言うと、虫食い状に東浦町の中に淡路町の飛び地が残っています。飛び地がたくさんできて、それが解決しないまま、今日まで至っています。だから、淡路町の飛び地が東浦町のそこかしこにある。通学その他いろんな暮らしの面でも、当該の住民は難儀をしてきたというわけです。ごみの収集あたりは協定を結んで地元の町で何とかやっていますけれども、通学区域は、境界を越えて通学するとか、いろいろな面での住民へのしわ寄せが今日まで続いている状態であります。 もう一つ、大きくもめたところがあります。それは、西播磨、岡山に近い佐用郡南光町です。この細長い小さな地区で、南北20km、南北3つの町村が合併しました。もともと、佐用郡ではなく、宍粟郡にあった上三河という地区も郡境を越えて南光町に合併したのです。合併を進めるに際して、いくつかの反対とか議論があったのですけれども、強引に合併してしまった。しかし、合併して半年も経たないうちに、また分町を求める声が上がってきます。そして、県に分町嘆願書を出します。南光町から分離して宍粟郡千種町と一緒にしてくれと子どもたちを巻き込んで同盟休校したり、ハンストをしたり、血判状を村に回すなど、地域内に対立状況が生まれることを何年か繰り返した。県もいろいろな調整をしたけれども、元に戻すことに対して町の体制側は頑として言うことを聞かない。最終的には、住民投票で決めようという話になって、住民投票をしました。住民投票をしたら、圧倒的に下流域の合併派の方が人数が多いので、分町賛成票は届かなかった。 結局、下流域の方の住民の首長が現在まで南光町では続いています。南光町というのは、参考までに、近畿で一番最初に共産党の党員町長が20年前に出ています。もう5期目に入っていますが、南光町の一番北の端のところは、今も千種町と非常に深い関係にあります。50年近く経った今でも、なにやかやと、地域間のしこりが続いています。 市町村合併の場合には、合併をめぐって双方の住民の合意が得られてないと、後でいろいろな形でしわ寄せや紛争が起こる場合があります。役場の位置をめぐる紛争、境界線の変更をめぐる紛争の事例はたくさんあります。 加古川の事例を話します。加古川というのは、ちょうど姫路と明石との間に挟まれたあたりですけれども、この加古川と西隣の高砂市の境界線に米田町という地区があります。今も加古川と高砂の市境を挟んで加古川市米田町と高砂市米田町というのがあります。もともとは米田町という一つの自治体でしたが、合併の際に、加古川へ入る方と、高砂へ入る方とに分かれて分離合併します。分離合併したわけですが、子どもたちは泣き分かれするのかと言えば、それは忍びないという形で、この旧米田町で組合立の学校をつくって、組合の学校が現在も続いているわけです。現在もそれぞれ高砂市民、加古川市民ですが、米田町の住民の子どもたちは、組合立の学校へ通っています。 組合立の学校と言えば、この淡路島の洲本市の隣にある緑町も同じ例があります。後ほど触れますが、最近、かなりニュースで賑わしていると思います。三原郡緑町は、三原郡の4町と今回合併するということで、法定合併協議会に移行しました。それに対して緑町の中の洲本市に近い広田地区の住民が異を唱えて、洲本市と一緒に合併したいと住民投票の実施を直接請求し、議会に働きかけた。議員提案したが少数で否決されたので、今度は住民が町長のリコール請求署名を始めました。今年の6月にリコールの署名数が目標に達したため、リコールによる選挙の混乱を避けるために、町長が辞表を出しました。町長選では、洲本市と合併したいと言っている派が元助役を、三原郡で合併する派が現町長を担ぎ、対決したところ、なんと47票差で郡合併反対派が勝ちました。 金山さんという新しい町長は就任直後、公約通りどちらと合併するかを住民投票で決めるため、住民投票条例を施行して来月11月に住民投票が行うことを発表しました。もう一度、町長選での47票差の対決を繰り返すわけですけれども、なぜこうなたのかと言うと、昭和の大合併のしこりをそのまま引きずっているからです。昭和の大合併の時にも、緑町は人口6千人くらい、洲本市と境界を接している、洲本の生活圏にある町であります。洲本市との関係が非常に深いところは洲本との合併を主張したけれども入れられなくて、この地区は境界変更によって洲本市に入ったところと緑町に入ったところに分かれました。先ほどの高砂と加古川の米田町と同じように、ここでも組合立の学校ができております。そういう状況で40数年間に及ぶ経緯があったのですが、今回の平成の大合併のなかで、昭和の大合併のしこりがもう一度、もろに噴出しているというのが現状であります。 合併をめぐり、昭和の大合併の後遺症がいろいろありますが、兵庫県ではそれ以外に、県を越えた県境合併があります。これは岡山県との境界、赤穂市でありました。赤穂市の海岸沿いの西端、ちょうど岡山県の日生町との境界領域に福浦地区という地区があります。それが昭和の大合併の時に日生町に統合されて、日生町と合併しました。その時に福浦地区の住民は、赤穂市との方が近いし、赤穂市の経済圏であるから赤穂市と合併したいという意思を表明しました。しかしながら、その時には国はまだ、県境を越えた合併を認めなかった状況でした。したがって当時の合併条件に、「将来、県境を越えた合併が可能になった時点では、改めて見直しして、住民の意思を尊重する」という条件を入れました。 その後、昭和の大合併が一段落しかかった頃に、国は、合併を促進するために県境合併を認めました。全国で、県境を越えた合併の申請の動きが出てきました。兵庫県でも、この日生町の福浦地区が、待ってましたとばかりに、県に対して、赤穂市へ編入の嘆願書を出します。赤穂市からも赤穂市へ編入する嘆願書を知事に出します。ところが、岡山県とか日生町が認めない。猛反対であります。猛反対をしていくなかで、対立抗争が高まり、中央の自治省の方に話が持って行かれ、自治省もいろいろ仲裁裁定に入ったけれども、なかなか話がつかない。すったもんだして4年後、大もめにもめて、地域のなかでは暴力沙汰、流血騒ぎも伴いながら、もうこれ以上放っておけないという状態になり、中央政府も県も編入合併を認め、赤穂市に福浦地区が編入合併にされたわけです。 この合併では福浦地区は兵庫県側に編入はされたのですけれども、いろいろないきさつがあって岡山県側が収まらない。地図の海上を見てください。両県の境界線が本来真っ直ぐ下りてきて、通常は県境になるのですけれども、ここの海上の境界線は赤穂市の地先へ回り込んでいます。旧の福浦地区、すなわち赤穂市編入前の県境であります。陸上部分は兵庫県側に入るのは認めるけれども、海上部分は認めない。海のない奈良県の方々は、漁業権というのはあまり直接関係がないですけれども、ここは、瀬戸内のもっともいい漁場であります。この漁業権は譲らないという形で、海上での境界域は、赤穂市の前面海域、わずか海岸から200mぐらい沖合いは、従来通り岡山県が漁業権を持つ地域が残ったのです。こういういびつなことが、その後もずっと続いております。 その結果、昭和50年代、ちょうどこの辺り、昔の塩田跡地に関西電力が赤穂火力発電所をつくりました。赤穂火力発電所をつくる時に、温排水を前の海域に出せない。それは、絶対認めないというのが、岡山県とか岡山県の漁民の意思でした。仕方なく関電は延々と6kmほどのパイプラインを掘って、温泉街のある赤穂岬の突端を東へ抜けるところまで地下のパイプラインを引いて、岡山県の海域に影響しないところへ排水しています。いわば、合併が円満にいかなかった、もめにもめぬいて、非常にイレギュラーな妥協をした場合に、そんなことがいつまでも尾を引いているという一つの事例ではないかと思います。 もう一つだけ最後につけ加えます。住民投票で合併を否決した事例です。 私の住んでいる明石市で、昭和の大合併で大型合併を住民投票で否決したケースがあります。 戦後ずっと神戸市は、北区とか西区へどんどん市域を広げていきました。南北平均およそ4km、東西16kmの明石市の上側が全部神戸市になっております。昭和の大合併の時に神戸市は、明石市も全部取り込みたいと模索して、昭和29年、正式に合併を申し入れました。当時の明石の市政も議会も歓迎する方向で12月議会にかけました。しかし、その直前から市民の側から反対が起こりました。明石は独立していきたい。神戸のごく一部では将来の活性化はないという意見や、合併してこそ活性化があるんだという議論があったわけです。その議論のなかで、12月議会で当局は圧倒的多数で可決されると思っていたのが、真っ向からの対立を懸念した中間派の議員さんが、住民投票で決めようと提案し、18対17の1票差で住民投票で決めることが決まりました。 明けて1月の末に住民投票が行われました。神戸市は、市長も議会の議長も、圧倒的多数で合併が決まると予想し、お祝いに駆けつけようとスタンバイしていたのですけれども、蓋を開けると、何と反対票が賛成票の3倍、2万票あまりの票差でもって、否決される結果になって、狐につままれたような状態が起きたというふうに言われています。そうした形で、明石は神戸市との合併で市民が「合併にNO」を決めました。 こうしたケースを見ていると、上手くいけばいいのですけれども、市民の意識と行政の意識が決定的に違っていた場合には、ずたずたになってしまう。そういうふうに考えれれば、今日の時点では、もめてしまうと、やはり住民投票で決めざるを得ないのでしょう。そういう時に、どっちに非があるのか。十分な議論をしておかないと、大きなしこりを残していくことになるだろうと、私は思います。 |
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| 2.「平成の大合併」前史 | TOP |
| (1)1995年から始まった地方分権の推進と市町村合併 このように、昭和の大合併は、兵庫県でもいろいろな傷跡を残して、それが40年前、50年前の古い話ではなくて、今もいろいろな形で尾を引いているわけです。平成の大合併を進めるうえで、だんだん国からの圧力が強くなってくる。しかしながら、地方分権を進めるうえでは、合併をするかしないかは市町村および住民が決めることだという建前論を高く掲げないといけない。同時に、あの苦い体験は、やはり避けたい。県がゴリ押しして、またそれが尾を引くというのは、避けたいということが、兵庫県が当初慎重に対応してきた背景にあった言えるのではないかと思います。 そのような中で、平成の大合併という動きが始まります。「平成の大合併」の前史にあたる部分、すなわち1995年から始まった地方分権の推進と、市町村合併の動きが、分権の受け皿として進められてきました。当時の自治省は、いろいろな形での促進策、財政的には「アメとムチ」と言われるものを用意してきたのは、すでにご承知のことと思いますので、省略します。 (2)1999年4月の篠山市誕生(多紀郡4町合併)のインパクト その中で、兵庫県にとっては、平成の大合併はできるだけ市町村の自主性に任せたいと思いつつ、焦点になってきたのは旧多紀郡の篠山の合併であります。篠山の合併は、国が平成の大合併のいわば、先駆け、あるいはモデルケースとして、いろいろなところで紹介をしています。 合併する前、法定合併協議会が立ち上がった97年の春から2年間、その前には96年の春から1年間、研究会をやっています。この研究会のなかで基本5項目を全部決めてしまいました。庁舎の位置。新しい市の名前。当時は市になる予定はなかった。当時は市の昇格要件が5万人でした。4町が合併しても4万ちょっとにしかなりませんでしたが、その後市制要件が緩和されて、4万人になった。4万人になったのは、なんと、篠山市が合併した99年4月の半年前、98年の秋でした。もうすでに、すべて合併のお膳立てができて仮調印も全部終わっている段階で、年末になってから慌てて、市制昇格の手続き変更をしたのです。 言い換えれば、篠山市の誕生というのは、現在の平成の大合併の促進策、合併特例債による大きなアメやムチによって進んだのではないということです。決して、市の昇格を目指して合併を進めてきたのではない。40年間にわたって、5回に及ぶ合併の動きがありました。昭和の大合併以降、5回にわたって、かなり合意をするところまでいっては潰れている。そういうことを今回はもう繰り返したくないという思いで、行政主導、議会と首長さんのチームプレーみたいなもので進めてきたのが篠山の合併であります。篠山の合併は皆さん方もよく視察等に行かれたと思いますので詳しく申し上げませんが、しかし、そういう篠山の合併が平成の大合併のモデル視されてきたということであります。これは、兵庫県内の合併にもいくつかのインパクトも及ぼしています。 |
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| 3.加速する兵庫県内の合併の動きと特徴 | TOP |
| (1)住民発議で具体化した氷上郡6町 一番インパクトを及ぼしたのは、篠山市に隣接する氷上郡であります。氷上郡には6町ありますが、20年くらい前からJCや青年会議所のメンバーが、「氷上は一つ、6万3千人の氷上市をつくろう」というような声を上げました。しかし、20年近く、ほとんど無視されたと言うか、盛り上がらなかった。国道沿いには「氷上市をめざそう」という看板を立ち上げましたけれども、ほとんど関心を呼ばない。ところが、篠山が合併を言い出して97年に合併協議会をつくると、それを機会にJCが改めて各町で議員などに合併アンケート調査を行いました。篠山市が合併を完了した99年の春、その直後に住民発議で合併協議会をつくろうという動きになり、署名を集めて合併の発議を行ったのがこの氷上郡の合併であります。 JCの発議で合併協議会が2000年10月に発足をしました。ところが、ここの法定協議会は、篠山とは少し違う展開を見せました。篠山の場合は、すでに研究会の段階で基本5項目を全部同意してしまった。法定合併協議会に入って、第1回目でそれをまた確認してしまう。いわば、最初から合併することを大前提にした協議会でした。氷上郡の場合は、住民発議で法定協議会に移行したのですけれども、理事者側あるいは議会の側は、決して合併に賛成ではなかったのです。 直接請求に対して、即日可決したのは2町だけでした。あとの2町は、特別委員会に付託しました。残りの2町は継続審議になりました。継続審議にしたところは、かなり反対がありました。例えば、西脇とか播州の北の方と接している山南町は、生活圏域が非常に多岐にわたっている。篠山との関係、あるいは北播磨との関係が非常に多い。あるいは京都府と境を接し福知山市との関係が強い青垣町とか市島町などもあり、周辺に散らばって、なかなか郡合併に行けないということで、協議会への移行議案をその議会で通せなかった。何回かの議会の反対に遭いながら、最終的には6町そろって可決しました。この間に、住民アンケートをしたり、住民意識調査をしたり、議会が全住民の調査をやった町もあります。 そんなことをやりながら発足した協議会ですから、協議会の位置づけがまったく違います。篠山は「合併を前提にした協議」をするのが合併協議会、氷上は「合併の是非を問う合併協議会」という位置付けをしたのです。この法定合併協議会の位置付けについては、他の地域でもずいぶんと議論があります。一体、法定合併協議会はどういう位置付けなのか。合併するための協議会なのか。合併の是非をそこで議論したらいいのか、というような議論がよくあります。これは、絶対これだという解釈はなさそうです。その時々によって表現が違います。例えば、国が今のところ説明しているのを聞いていますと、協議会で合併の是非を議論したらいいのだ。やっぱり合併は不要である、あるいは違う組合せをしようと思ったら、そのように選択したらいいのです。だから、合併の是非の議論をやろうという協議会をまずつくりなさいというように総務省などはよく言っているようであります。 (2)県内3番手の住民発議を否決後、一転して合併へ模索する北播磨の西脇・多可郡 ところが、あとから出てきますが、氷上郡のお隣の西脇市と多可郡4町で、ここもJCが署名運動をして、住民発議で昨年末に合併協議会の設置を直接請求しました。ところが、ここも理事者側、議会の側が、まあ、合併の勉強をするのはいいけれども、そんなに急ぐ必要はない。ある町長は、合併などまったく必要ない。もううちのまちは、まちづくりは完了している。あるいは、合併特例債などによって金をもらっても所詮は借金で、結局は大きな借金を背負うだけにすぎないのではないか。もう要るものはないというようなことを言い切っている町長もいました。 そのようなところで、直接請求があったのですけれども、その時に議論になったのが、「そもそも法定合併協議会というのは一体何や?」ということでした。総務省の人を呼んだり、県の人を呼んだり、あるいは私も呼ばれたりして、いろいろな立場の意見を聞いてきました。要するに合併は、もっと慎重にやったらいいのではないかという人たちの結論は、確かに合併協議会がスタートしたから、即、もう自動的に合併に行くのだというわけではない。しかし、合併協議会というのは、合併するための内容を詰めるのが目的だから、一度協議に入ったら、合併をしないための協議というのは、多分そこではできないのではないかという議論がありました。 氷上郡の場合、法定協議会は2年間やってきました。そして、最終的にはこの10月5日に、協議会の委員全員一致で、2005年3月の合併をめざすということを決めました。そのプロセスを見ていますと、やっぱり合併協議会は、合併をどのように進めていくかということを議論する場です。協議会は毎回やる度に、ニュースを出します。あるいは、今はホームページで議事録を公開しています。その中では、合併はなぜ必要かということを広報するわけです。もう一つは、合併すればどのようなメリットがあるか。問題点はどこにあるかということも議論します。メリットは、別に問題はない。しかし、問題点は、例えば住民サービスの問題であるとか、住民から遠くなるとか、いろいろな合併のデメリットがあります。こういう問題点、デメリットに関しては、これに対してはこういうふうな手をうちますから、ご心配なくというふうなことを書かざるを得ない。いわば、合併協議会の広報用資料によれば、合併をすればこんな問題点があるのですよということを一生懸命住民に広報する協議会なんて、論理的には多分あり得ないであろうということが、氷上の展開を見ていると感じられるわけです。 したがって、建て前としては、協議会は合併の是非を問うわけです。しかし、実際的には法定合併協議会というのは、入ったら最後、終着駅に行き着くだろうと思います。だから国は、とにかくごたごた言わないで、まず協議会をつくりなさいというように、どこへ行っても、研修会や講演会で言っています。要するに、まずとにかく合併協議会をつくりなさいということは、つくってしまったら、合併へのレールに乗るではないか。多分、そこで後戻りはできないではないかという懐疑派、慎重派にとっては、一つの不信が生じているのだと思います。 いずれにしても、氷上郡は2年間にわたる合併協議会の議論でようやく、合併をめざそうというところです。今年になってから、この4月とかあるいは10月に合併協議会を立ち上げたところが、たくさんあります。しかし、こういうところは、国が指導しているように、法定合併協議会を2年、あるいは1年11ヶ月という最短距離で決めようとしています。2005年3月から逆算して、そういう意味では今年の年末、あるいは年明けがタイムリミットと言われているというのは、そういうことでありますが、氷上はこの間すでに2年間、法定合併協議会をやってきました。2年間経って、今やっと、じゃあやっぱり合併をめざそうというところにきました。でもまだ基本合意ができていない。例えば、庁舎をどこにするか、新しい新市名をどうするかという基本5項目にはまだ入っていない。そこに入るまでに2年間の時間を費やして、毎月毎月、協議会をやり地元の説明会をやり、そして、広報活動を行ってきました。 ある意味では、結果的に見れば、この2年間は合併の是非を問うこととして機能していたと言えるのではないか。時間をかければ、そういうことができる。多分、時間がなかったら、なかなかそうはいかなかったのではないだろうかという気がします。もちろん、氷上のなかでも、住民の中では、合併に対する批判的な運動をしている人たちもあります。住民投票を求めて署名運動しているグループもあります。しかし、そうした声はあっても、時間をかけてやった時に、一定の地域の合意形成ができたのではないか、できつつあるのではないかという感じがするわけであります。 (3)「1市論」秘め、まずは2市でワンステップめざす淡路(中淡4市町と三原郡) 私は、篠山の合併が行われる前後を通して、いくつかの研究レポートにまとめたことがあります。当時は、まだ氷上郡合併なんて具体的に動いていなかった時代です。兵庫県内で合併の動きがあったのは、当時は氷上を除けば、淡路ぐらいです。 淡路島というのは、一つの島ですが、ここには人口4万あまりの洲本市と、南部の三原郡4町、北部には津名郡の6町があります。現在、3つのグループで動き始めているわけですが、実はもう20年くらい前から「淡路は一つ」というような掛け声、スローガンが上がっています。「淡路は一つ」というスローガンを作ったのは、洲本市を中心にした若手の経営者グループであります。いわゆるJCです。青年会議所を中心とした若手の経営者グループが「淡路は一つ」を合い言葉に掲げていました。20年前というと、大鳴門橋の建設が進んでいた。そして、明石海峡大橋の建設計画が具体化していくという時期であります。その時に、「将来はもう、島の中で1市10町もそれぞれがやっていく時代ではない」という声がありました。しかし、なかなかそれではまとまらなかったのです。 明石海峡大橋が開通したのは98年ですが、その開通の前96年に「淡路は一つで1市」という運動をしているメンバーが、住民発議しようという形で署名を集めました。そして1市10町に対して、直接請求をしました。しかしその時は、これを議会で取り上げたのは、1市5町だけでした。あとの5町はまったく取り上げずに、議会にも諮らなかったわけです。当時はまだ、合併促進の住民発議の制度が変わる前であります。現在だったら、直接請求があったら、議会は議案として出さなければいけませんけれども、当時は直接請求されても、首長はそれを議会に諮らないということもできたのです。そのようなことで、合併話は潰れてきました。その時の1市論の中心メンバーだったのが、今の中川洲本市長であります。彼は、もともと洲本のJC理事長をやっていた民間人なのですが、市長になって先日3期目を通りました。彼はもともと強力な1市論者であります。そして、時期をずっとうかがっていました。 そのなかで今回具体的に、最初に動き始めたのは南の三原郡であります。三原郡の4町がまず議会の有志で最初の研究会をつくっています。そして、2000年の初めに「三原郡4町で合併すべきだ」という報告書を出しました。それには各町長も参画しましたから、それを受けて、具体的に動き出しました。 しかし、その段階ですでにこの緑町、先ほど申し上げた昭和の大合併の時に大もめにもめた所でありますが、この緑町がやはり前回の轍を踏まずに、あるいは前回の合併時のしこりを解消するためにも、ぜひ洲本市を含めた合併をしたいということを言いました。他の3町はなかなか緑町を説得しきれなかった。ということで、じゃあ洲本市を含めた1市4町、南淡路の合併を目指そうではないかという形で4町の町長は、揃って、洲本市長に申し入れに行った。洲本の市長は1市論者ですから、「それはどんどんやりましょう。しかし、いずれここで論議しているうちに津名郡もここに参加してきてもいいという前提になるのだったら入りましょう」と言いました。 ところが、三原郡側は絶対に「1市」には入らないという強い意思を4町の町長で確認している。なぜかというと、淡路島というのはだいたい氷上郡と同じくらいの大きさですけれども、北部と南部では全然違います。北部は真ん中辺りがずっと山地で、海岸線に集落がはいつくばっている農山漁村であります。南は三原平野があって、随分豊かであります。そして、メインは洲本市であります。こういう「豊かな南」と「貧しい北」ということになりますけれども、それに加えて、阪神・淡路大震災です。8年前の震災で大きな被害を受けたのは、特に北部3町、そして一宮町から津名町であります。いわば、津名郡6町は、震災のダメージが大分ある。復興にも随分と金を使いました。そのツケが今、どっと財政にきていますから、ただでさえ財政的にもあるいは町の産業立地的にも厳しいところで、震災のそういうしわ寄せが出てきているのです。 そのような中で、三原郡4町は南北合わせた合併に対して難色を示すわけです。多分、中川市長は一計を案じたのでしょう。何とか段階的に押したり引いたりしながらということだったのでしょう。この1市4町案は破談し、三原郡側は「それだったらわれわれは4町だけでやりましょう。緑町がもしも洲本市へ行くのだったら、3町だけで合併しましょう」という堅い雰囲気で進めてきたのです。そうした中で今度は、洲本市が、津名郡の6町でつくっていた合併研究会に参加したいと申し入れ、1市6町の研究会に拡大します。 洲本市長の計画としては、とりあえず津名郡と洲本市の1市6町で枠組みをつくっていこうということでした。しかしながら、なかなか進まない。津名郡でも南と北で少し色合いが違ったりしますから、まとまらない。今度は、昨年の秋から年末ぐらいにかけて、洲本市はもう一度、三原郡に「もう一度、一緒にやらないか」という申し入れをします。申し入れをしますが、結局は「嫌だ、嫌だ」という話になります。どちらにしても、洲本市が中心になろうとして、うまく引っ掛けていくつもりだろうというふうな疑いがあって、また上手くいかなかった。そうすると2週間後に、洲本市は津名郡との1市6町の研究会から脱退して、隣接する津名町と五色町の2町と洲本市で中淡中核市構想を発表します。中淡路、淡路の真ん中に中核市をつくろうという構想です。それと同時に津名郡6町の研究会は解散しました。解散すると同時に、一宮と北淡町も入れてくれとなりました。その時には、結局、一宮は入れるけれども、北淡町は入れないという話になりました。まず、1市3町でまとまって、合併協議会がスタートしてから、その条件を全面的に飲むのだったら、入れてあげる。そういうふうな雰囲気が続き、今年の2月に、洲本市と3町の法定協議会が発足しました。 4月には、三原郡4町の協議会が発足しました。あとの津名郡3町はどうするのだろうということですけれども、まあ、いろいろありますけれども、3町はつい今月の中頃に、3町で枠組みをつくって、やはり津名郡は一つなんだという形で、この南の3町に呼びかけて、もう一度6町でやろうというふうな呼びかけをしております。なかなか、上手くいかないのですけれども、ここだけが、バラバラのままで行くのか、一つになるのか、ということがまだわかりませんけれども、今のところは3つの案が出ています。 そこへ加えて、先ほどの緑町の町長リコール騒動であります。町長がリコールされて、三原郡4町の合併に反対する町長が登場します。そして、その町長のもとで、洲本市を含めた広域合併をする住民投票を来月にやる。町長選挙は47票差ですから、今度はどうなるのかというのが、まったく予測がつかないわけであります。どっちに転んでも、投票結果でこの淡路の枠組みがすんなり行くとは決して思えないわけであります。兵庫県はこれに対して、どういう対応をとっているかと言えば、まあ一挙に1市とは無理だ。時間がかかる。とりあえず、2市か3市でやっていって、それから折りを見て一つになったらどうか、こういうふうな言い方をして、この1市論に対して、言わば、水をかけているところであります。中川市長も、どうやら腹づもりは、まだ「一挙に1市」を捨てていません。一度この枠組みに決まってからでは、また時間がかかる。そういうことで、まだ揺さ振りをかけながら、多分この緑町の動向を一つのテコにして、もう一度この年末から年明けにかけては、淡路の枠組みを巡って、大きな騒動が起きるのではないかというふうに、私は思います。 (4)合併熱冷え、広域課題を模索段階の北阪神3市1町 時間が迫ってきたのですけれども、もう一つ、播磨地域の状況を見ておきたいと思います。北の方が但馬です。全ての地域で法定協議会が、今月に相次いでスタートしました。いわば、但馬と丹波と淡路は、全部の市町が何らかの形で、合併に動くだろうという意味なのです。阪神間では、今日は詳しく触れませんが、都市部の阪神南部の尼崎、西宮、芦屋の上にある、伊丹、川西、宝塚の3市と猪名川町の動きがあります。2年前、2000年1月に、4人の市町長が揃って、何と1月4日の初出の日に突然記者会見をして、4町で広域合併を視野に入れた研究会をつくるということを発表しました。当時は市役所や役場の職員も議員さんもそれを事前に知っていた人はほとんどいなかったと言われていますが、前の年の夏くらいから、4人の首長さんが定期的に集まりながら話をしてきた。言わば、トップシークレットとして、4市町でそういう方向へ進もうという合意があったわけです。4市町がもしまとまれば、56万の人口になるわけですけれども、おおよそ2年半経ちますが、最近ではだんだんトーンが下がってきております。もちろん、住民の中にも、議会の中にも、合併を目指すなんていう声がほとんどない。なぜ、合併なのかというのが、まだよくわからない。しかし、これからいろいろな行政をやっていくためには合併が必要だけれども、必ずしも合併ではなくて、広域行政を強化する。最初は、かなり合併も視野に入れていたのですが、最近では合併と言うより、かなり変わってきています。どうやら、合併というのは、今の段階では難しいのではないかという判断が、各市町の研究会のメンバーの中で、だんだん大きくなってきているのではないか。都市部における広域行政をどのように上手く進めていくのかというところが、どうやら焦点になりつつあります。 なぜかと言うと、一つはまず阪神間と言えば70年代以降、住民運動が大変盛んになります。住民、市民運動が非常に盛んであります。こういう所で大合併の動きを起こした場合には、大変な大きな反対運動が起こるのではないかということが容易に想像されます。市民が考える合併と、行政サイドが考える合併へのインパクトというものが、大きく違います。但馬、丹波、淡路という過疎地や郡部は、いずれも財政的な問題が大きなインパクトになっています。 (5)二転してまとまった養父郡と一気にまとまった朝来郡で2市めざす南但馬 郡部の但馬地域には、豊岡市1市と18町があります。南但馬と呼んでいるのは、和田山とか生野などがある朝来郡と、氷ノ山などがある養父郡です。北但馬は西から湯村温泉がある温泉町とか浜坂の美方郡、城崎郡の香住や城崎町があって東部には出石郡があります。 一番早く動きがあったのは、養父郡でした。養父郡では2000年に「合併を進める会」が、各町にできました。同時に郡の単位でも「合併を進める会」がつくられ、住民発議のような動きをしてきました。しかし、ここでは住民発議というものの、その中心リーダーは元町長とか、元教育長、元助役、あるいは元議長とか、いわば、「隠れ行政」ともいえるような人たちが、現職に代わって、行政のOBで合併を推進したというのが住民発議の現実でした。 昨年、各町に全部、合併協議会の設置を直接請求して、3町はすぐに可決したのですけれども、朝来郡の和田山に近い養父町だけが、議決同意の段階になって4町での合併に反対し、朝来郡との合併を求める動きに出ました。朝来郡との合併を求める署名が、養父郡4町合併を大きく上回り、署名が議会に提出されます。議会は、養父郡4町合併の協議会設置を否決し、潰れてしまったのです。しかし、それでは具合が悪いと巻き返しが始まります。特に昨年の末から、今年の初めにかけてのいわゆる国の新しい財政措置、いわゆる小規模町村に対する交付税の削減措置が具体的な数値として出るにつれて、これではやっていけないと焦りました。4町とも過疎地域ですから、今度は町長発議で、合併協議会の設置が提案されて、この6月くらいに可決されました。今度は町長発議でやったのです。 今回は、周辺状況の変化がありました。合併には音無しの構えであった朝来郡が、今年になってから急激に各町で合併の動きが出ました。合併研究会をつくって、それぞれ町が住民にアンケートをしながら、地区への説明会を開きながら、つい最近、9月に合併協議会を開きました。いわば、朝来郡は朝来郡4町だけでやるという動きがはっきりするなかで、養父町が朝来郡と一緒になるということは見放されたという背景があります。これは先ほどの淡路の南と北の関係に似ています。2つの地域は、財政的には2倍くらいの差があります。やはり財政力の違い、あるいは現実にまちづくりでもそれぞれの厳しい条件を持っているのですけれども、相対的にそんなに切羽詰まっていないところと、切羽詰まっているところというのは、なかなか一緒になれないというのが、現実であります。 (6)1市10町の組み合せで変転、2市で決着へ向かう北但馬 北但馬の方に移りますと、西の方と東の方に分かれます。最初に火をつけたのは、湯村温泉のある温泉町や浜坂町あたり美方郡4町です。ただし、この4町では3万人の市制特例要件を満たさない。それで、1万5千人の人口のある香住町という「北但馬の雄」に働きかけて、5町でやりましょうと持ちかけた。ところが、香住町は城崎郡に属し、実はどっちともやりたいとハムレットの心境になります。 そのような中で一昨年、竹中という町長が、「だったら全部一つになったらいいではないか。1市10町で合併しましょう」と言って、各市町長に申し入れをしたのです。けれども、3ヶ月以内の回答期限内に、全市町が揃って、「そのようなものできるはずがない。時間的に間に合わない」ということで潰れました。今年の初めになってから香住町は、美方郡との5町でやりましょうという話がまとまった。 では残りはどうするのか。これも豊岡市と城崎町・竹野町、日高町と出石町・但東町という組み合わせがまとまらず、3つでやるのか、3町と1市2町でやるか、それとも1市5町でやるか、ずっと議論を繰り返しました。3町派というのは、但東と日高にいるわけです。だからやはり3町でやるというふうに傾いたのですけれども、結局最終的には、この10月になってから、やはり、もう一つにまとまらざるを得ないという形で、10月の初めに決着しました。この結果、但馬1市18町は、4つのブロックの4市になる枠組みで、すべて協議会がスタートしたということであります。 なぜ、極めて短期間に、半年くらいの間で急に動き出したのか。一つには、やはり国の財政政策です。過疎地域、小規模地域に対する財政措置が大きなインパクトになっているというのが第一であります。もう一つは、それを超えて県が、随分と強力に合併を働きかけました。冒頭に申し上げましたように、兵庫県は合併に大変慎重であると言っていたのですけれども、昨年の中ごろくらいから、支援本部をつくったり、副知事が全市町をまわって、市町村合併を促進し、合併しないと将来やっていけないということを説得して回っています。「市町村合併は市町村の意思による」という建て前は別として、現場の説明会等々では、各県民局の参事クラスがいろいろな会合で、「合併しなければ、道路も造れませんよ」というようなあからさまな発言が目につきます。一体、県はどうなっているのだという声が、最近は少し出てきております。 (7)姫路市の政令市願望、思惑一人歩きの中播磨臨海部 時間がなくなりました。兵庫県内の様子を大体見ましたけれども、もう一つだけ言いますと、面白いと言ったらおかしいですけれども、兵庫県内では神戸市に次ぐ大きな姫路市が、去年の11月に突然、政令市を目指すという言い方をします。96年に中核市になっているのですけれども、政令市を目指すということを、議会で市長が言いました。それを受けて、経営者の一部が署名運動を始めて、高砂と加古川を入れて政令市になろうと働きかけました。しかし、両市からは猛反発が出ましたが、とりあえず高砂を相手に選んだ。高砂と姫路市合併の直接請求を行います。署名を集めて、協議会の設置を住民発議しました。姫路市長が高砂市に協議の申し入れをしましたけれども、期限ぎりぎりに高砂市は、「その気はまったくない」という形で、袖に振りました。今のところ、この案は潰れております。なぜ姫路市が政令市を目指そうとしているのか、未だに謎であります。よくわからないですけれども、ただ大きくなりたいという思いが強かったということです。 (8)郡単位合併の模索と、テクノ都市の影含む大広域合併論も飛び出した西播磨 もう一つ、西播磨の全体と岡山県の日生町も含めて、「大西播磨市」をつくろうと相生市長が、この3月にぶち上げました。4月からは、「新大播磨市推進室」をつくってやっていますけれど、今のところでは、各市町長も県も、極めて冷ややかであります。これが一体、単なる大風呂敷やアドバルーンに終わるのか、はたまた何らかの関係で動き始めるのか、まったく未知数であります。 |
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| 4.地方分権時代と市町村合併を見る視点 | TOP |
| (1)行政区域と生活文化圏域 今日はこの後、こうした合併の動きについて、一体これから私たちは、どういうふうなことが重要なのかということを最後にお話する予定でした。時間が無くなりましたけれども、簡単に項目だけ述べて終わりたいと思います。 地方分権時代に入って、いま、市町村合併をどのようにしていったらいいのか。地方分権時代の動きが始まると同時に、この平成の合併が進んできました。同時進行でありました。だから、現実には市町村の現場は自治体も、住民も、地方分権へのスタンスが全然取れていない。そのような中で一挙に、建て前としては「自主的合併」と言いながら、「上からの合併」が強力に進められている。この中で、住民の側から見たら、どういうふうなことが考えられるのかというと、一つは、合併を推進する根拠の一つに、50年前、40年前と比べて、交通手段や通信手段の発達で、住民の生活圏域が広がった。だから、もっと大きな単位の方がいいだろうという議論であります。 確かにそういう面はあります。しかし、住民の暮らしとか生活文化のエリアというには、必ずしも一つの円ではないです。互いに圏域の異なる多様な円があり、暮らし、買い物、通勤、学校、文化などによって、全部圏域が違うわけです。これを全部包含するようなエリアをつくると大変大きな円になります。大きな円にしても周辺部はまた隣接地域と近いですから、際限ないわけです。いわば、生活文化圏域の広がりと行政区域は別の考え方として対処した方がいいのではないか、生活文化圏域と行政区域とをイコールさせるというのは、どだい、もともと無理な話ではないかというのが第1の視点であります。 (2)行財政効率と住民自治の保障 2つ目は、行財政効率と住民自治の保障です。篠山が積極的に合併へ動いてきました。氷上もまあそれに近い面があります。自信を持って進めている洲本市長のような例もありますけれども、それ以外は、いわば、この合併をしなかったらやっていけないという消極的な動きです。合併しないと財政面から締められる。お金で締められるから合併するしかない。こうした消極的な合併の動きが大半です。 このような形での合併の動きでは、合併後のまちの将来像、どんなまちづくりをするのかということが、大変希薄になる。まさしく、2年間でバタバタと合併を決めてしまうという、荒っぽい動きがこれから続いてくるとすれば、一体将来のまちづくりはどうなるのか。行政効率が仮に高まったとしても、将来のまちづくりに対する不安というものが、常について回るのではないか。 同時に、大変大きな自治の単位、基礎的自治体の単位が大きくなれば、住民自治というのはどうしていくのか。住民の意思をどのように反映していくのか。大都市ではほとんど、議会も形骸化して、住民の意思を行政に反映させることは大変困難になっています。今、大都市、とりわけ、政令都市では、行政区を東京都の特別区に準じたようなもっと自主権を持った、あるいは、議会機能を持った基礎的自治体に変えていくべきではないかという逆の動きも出てきています。そういう意味で、住民自治を保障するということと、行財政効率を高めるということは、しばしば相反するわけです。どのように、上手く整合性をとっていくのかが、2つ目のポイントであります。 (3)住民サービスと「補完性の原則」 3つ目は、住民サービスの問題です。例えば篠山の合併でも、支所機能は大事にしますと言ったけれども、結局、今田町という町は、約70人いた旧の町役場が、今は9人の支所になり、閑古鳥が鳴いています。ほとんど、窓口業務ぐらいしかできないというふうなところだと思います。 兵庫県の朝来郡合併をめざしている生野町で、住民参加のまちづくり、住民主体のまちづくりが、この5,6年、大変熱心に取り組まれています。今年の3月には、まちづくり基本条例を作りました。画期的な、北海道のニセコ町の条例に匹敵するようなものを作っていますが、ここでは、先だって、この合併協議会の話が決まったと同時に、住民の「合併を考える会」というのができました。職員と議員と住民が一緒になって、合併後のまちの将来像を決めようと、基本的な考え方を「小さな本庁、大きな支所」というキャッチフレーズを掲げています。支所機能を大きくしよう。本庁機能は小さくていいのではないか、というふうに、基礎的な自治体の単位をもっと大事にすべきではないかというのが、住民から出されている意見です。いろいろな専門家のアドバイスを受けながら、職員と住民が今一緒に議論して、それを法定協議会に提案していこうという動きもあります。 このように、住民サービスをどうしていくかということは、言わば、地方分権の補完性の原則、原理です。身近な行政は、もっとも身近な自治の単位でやっていくんだということを満足させていくためにはどうするんだというところが青写真に描かれていないと、単なる行財政効率だけの合併になっていくという点であります。 (4)合併論の意思決定プロセスと住民主体 4つ目は、合併の意思決定をしていくプロセスであります。プロセスで住民が参加していく例は大変少ないです。篠山は、一切、住民参加なし。法定協議会も公開しなかった。結果だけは公開しましたけれども、会議を公開しなかった。氷上郡では、最初から全面公開です。今や、法定協議会の公開は当たり前の話ですけれども、単なる協議会の会議を公開、決まったことを公開するだけではなく、意思決定していくプロセスにどのように住民がかかわっていくかということが非常に大事であります。先ほどの、生野町の住民組織は、職員と話し合いをしながら、そして、その意思を協議会の議論ではなくて、別のところで行われたさまざまな議論を協議会の議論に反映していこうとしています。このような意思決定プロセスに、住民がどう参画していくかというのも大きな課題であります。 (5)市町議会と議員の役割 5つ目は、市町議会と議員の役割であります。もともと市町村合併は、議員が合併の足を引っ張るといわれてきました。議員数が、半分から3分の1に減るのですから、そういうふうに言われています。しかし、篠山の合併を主導したのは議員であり、議会でした。兵庫県の例を見ても、今、議会が足を引っ張っている例は少なくなっています。そうすると今度は、議会が最終的に合併を決めるのですから、決めるのに際して、どのように住民の意思を本当に反映するのかが課題になります。日常の議会活動が形骸化しているとよく言われていますけれども、この合併の決定プロセスでいくと、議会も住民を代表しているという機能が問われるのではないか、ということが大事な点であります。 (6)都道府県の役割 最後の都道府県の役割は、多分これから大きくなります。きっと、第二次分権改革は財政の問題、第三次分権改革は都道府県の再編成という問題が日程に上ってくると思います。いわば、市町村合併の次は、都道府県の再編が、目に見えてくる。そうすると、現在進んでいる市町村合併は、国の仕組み全体をどのように考えるかというふうなことも視野に入れながら、単にわがまちの懐具合だけで決めるのではなくて、この国の地方自治のあり方、あるいは行政のあり方、分権のあり方を考えるなかから、どのような合併を進めていくのか、あるいは、進めていかないのかということを考えねばならない、と私は思っています。 若干時間がオーバーして申し訳ありませんでした。これで終わらせていただきます。 |
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※ この講演録の無断引用は、ご遠慮ください。【桜井市 市長公室 企画課】 |
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